3歩進んで1歩下がる?時には後ろを振り返ることも大事やったりします。

はいさい!
愛知県は豊橋市に出没していたせ〜じです!

豊橋で開催されたエクスマタイムズに行ってきました。

何気なく見ていたフジテレビの「パイセンTV」で、初めて短パン社長こと奥ノ谷圭祐さんのことを知ってから1年半。
ようやく、ようやく短パン社長のフル公演を聴くことができました。

ものすごい場のパワー、講師のパワーを感じ、頭も心もパンパンっす。
でも、すぐにブログでその感想とかまとめとかを書くのはちょっとアレなので、いつものように、まずはしっかり自分の中で消化していこうかなぁ。

 

あれから1週間経ってみて。


ふと目にしたこのポスターから、警察官時代を振り返ってみたブログを書いてから1週間。

その間に、
みんなで開催したYOROZU EXPOが大盛況に終わり、
マックスブログ塾でたくさんの人と出会って話しをして、
豊橋のエクスマタイムズで藤村先生をはじめ短パン社長、コンクリ克っちゃん、工具屋てっちゃんの講演を聴いていて、
前向きにこれからのことを考えながらも、改めて自分自身を振り返ってました。

そんな自分の棚卸し。
ちょっと長いけど、警察官を辞めた後のことを、、、

 

「信念」を持って進んでいた時、そうじゃなかった時

警察官を辞めて、島へ帰る決意をしたのは、33歳か32歳だったかなぁ。

先週ブログを書いていて、なぜあの流れで警察官を辞めようとなったのか、かなり雑な書き方になってるなぁ~と気になってたんです。

実は、当時は自分でもよくわかってなかった。
でも先週、あのポスターを見て、ブログを書きながら気づいたんす。

20代の頃は、「海が好きでダイビングの仕事がしたい!」とか、「警察でアクアラングとか水上警察がしたい!」とか、自分自身で選んで決めた道に向かって、楽しくも辛くも一生懸命に生きていたんですよね~。

でも、機動隊を離れてから、警察官という道に進むことになった。
そこでも、真面目に一生懸命頑張っていたし、その道は楽しかった。

でもね、その道には、
ボクが自分自身で決めた強い意志はなかったんです。

だからかなぁ。
警察官を辞めるときも、辞めた後も、後悔はなかった。

今、振り返ってみれば「純真な正義感」よりも「海(湖)に潜る」という想いの方が強かったんすね。

 

島に帰ってから2代目経営者として、、、

まずはリハビリから

そんなわけで、親父に謝り、「跡継ぎとして働かせて欲しい」と島に帰ってきました。

で、帰ってきて間もないころは、経営はちょっと先に置いといて、まずはダイビングガイドの勘を取り戻そう!なんて考えながら、当時のガイドさん達に教わる雰囲気でリハビリガイドをしてました。

ただ、2代目経営者の心の準備をしながらガイド復帰していくんですけど、ね、なんか違うんですよ。

会社やショップの雰囲気というか、空気感というか・・・。
会社全体が、うっすらと暗~いオーラで覆われているというか・・・。
スタッフも頑張ってくれているんだけど、疲れ切っているというか・・・。

 

じっくり観察してみてわかったコト。
私が帰ってきた当時、この会社には「リーダー」が不在だった。

とりあえず、この暗~い雰囲気を取り除こうと頑張ってみた。
そしたら、なんとなく明るくなった(ような気がする?)。

 

徐々に経営者目線にシフトして

1年目はガイドの勘を取り戻すことに専念して、その後、少しずつ経営者視点へとシフトしていくコトにしたんですが、、、

これまで経理とか金銭勘定というものには一切触れたコトがなかったボクは、まず経理担当の社員から資料を見せてもらいながら少しずつ覚えていくコトにしました。

でも、ね。
素人のボクでも簡単にわかるくらい、当時の経営状況はかなり厳しかったです。

金融機関からの借り入れは、返済条件の変更を繰り返してばかりでわずかな利息を払っているだけ。
固定資産税などの公的支払いは数年間滞納したままで、いつ差し押さえがきてもおかしくない。
いろいろな仕入れ業者への支払いも滞りすぎて、現金取引しかできない。

等々、ホントに自転車操業もいいトコやった。

もちろん、経営改善に取りかかります。
経費削減で、社長(親父)とボクの給料を大幅に下げることにしました。

さらに、ホテルの稼働率も落ち込んでいたので、サービスの提供もテコ入れしました。

当時は某スポーツクラブからのダイビングツアー1本に頼りきっていたんです。
JTBさんなどの大手エージェントとも提携はしていましたが、そっちのシェアは微々たるものだった。

で、ボクが警察官になる前と比べると、ダイバー自体が少なくなってる?それともみんな海外に行ってる?沖縄や座間味に来るダイバーがかなり少なくなってるように感じたんです。

ということで!
ダイビングに依存する集客方針を変えようとしました。さすがに、これには勇気が必要だった。
でもそれ以上にダイビング依存から脱却する代替案を考え出すことに苦労したんです。

この頃は、とにかく楽しく、一生懸命だったなぁ。
たくさんのお客様に喜んでもらい、ファンになってくださる方も少しずつ増えてきました(喜)。


ぼんくら2代目なりにビジネス書を読み漁ってマーケティングやマネジメントを一生懸命勉強して、思考錯誤を繰り返しながら、少しずつ会社の負債を減らしていった頃、、、

ダイビングとの二本柱となり得る「旅行プラン」を練り上げて、その企画書が完成書したんです。

今までにありそうでなかった旅行プラン。

このプランが動きだしたら、会社の経営状態は改善される(はず)。
さらに、この仕組みがうまく回って軌道に乗れば、島の事業所も一緒になって、みんなで盛り上げていける!(はず)。

 

ひとりよがりの強すぎる思いは暴走して、、、

その頃、私の頭の中にあった信念は、

  • 親父が苦労して立ち上げたこの会社を盛り上げる。
  • なにがあっても外に逃げず、この島で頑張る。

でした。

 

というのも、ボクが家出して島を離れたのは平成13年。
2月には宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の事故があり、9月にはアメリカで9.11テロが起こりました。

ボクは一切知らなかったのですが、9.11テロのあったちょうどその日。
沖縄は前代未聞の台風に襲われていて、その台風で親父の船は沈没したんです。

そんなことは全く知らず、警察官採用試験に合格して入校説明会へと足を運ぶ9月中旬の朝。
島の先輩から1本の電話がかかってきました。

先輩「せ~じ、お前、今どこで何してる?」

せ~じ「あっ!今、内地です。」

先輩「すぐに島に帰ってこれないか?お前、親父の船が沈んで親父が大変なってるよ。」

せ~じ「はっ?なんすか、それ。。。」

その時、私が出した答えは、滋賀に残って警察官になることでした。

あれから10年弱の年月が経ち、島に帰ってきた私を、その先輩は温かい笑顔で迎えてくれ、ホントによく助けてもらいました。

親父の会社の経営状態が危なかったのも、この事故が大きな原因のひとつだったんです。

あの時、オレが島を離れてなかったらこうなってなかったかな。
先輩から連絡もらった時、島に帰ってたらもっと変わってたかな。

そう悩んだこともあったんですが、そんなコト、誰もわからないっす。

ただ、後悔だけはしたくなかった。

さすらいのペットボトル職人をしてきた経験も(?)、警察学校で叩き込まれたコトも、機動隊でしごかれた男の修行も、とにかくいろんな全てを総動員して、頑張りたかった。

苦労させてしまった親父への罪ほろぼし、たった一人だけ連絡をくれた先輩への感謝、ボクが踏ん張る理由はそれだけでよかったんす。

でも、それは結局、
ボクひとりの勝手な思いがあまりにも強すぎたんです。

そんな思い、誰にも話してないんだから誰もわかるはずがない。
ひとりよがりでした。
ちゃんとしているつもりで、まわりの人を気づかうゆとりがなかった。
ピリピリ、イライラばかりが表に出ていた。

オレがこんだけやってるんやから、ついてこいよ。
組織として、組織の長として、こうあるべきやん。

なんて感じっす。

 

迷走と暴走。気づいた時にはもう手遅れで、、、

独りよがりの強い思いが暴走し、迷走していたボク。
はじめのうちは私に期待してついてきてくれた社員もボクとの距離を置き始め、身内であるはずの親父もボクを煙たがるようになりました。

しかも、それにすら気づいてなかったというボンクラっぷりっす。

そんな中、急にやってきた親父のがん宣告。
しかも末期で余命は数か月。

そこから、大きく歯車が狂い始めていきました。

そんな夏のある日、一度は経営をボクに任せて治療に専念してたはずの親父が、突然経営の指揮を執り始め、親父の一声で、突然会社をクビになりました(笑)。
とはいえ、ダイビングのお客様はたくさんやってくるわけで、お客様へもほかのスタッフへも負担とか迷惑はかけられないから、クビとか意味が分からないと海へは行き続けるんですが、、、

経営面は一切シャットアウトされました。
数日後、親父に呼ばれて突然クビを解除され(笑)、元の状態に戻るわけですが・・・・・。

頑張って貯めこんだ会社の運転資金がほぼ根こそぎなくなっている・・・・!
死期を迎えた親父が、個人的な会社への貸付け金と、未納分の給与を清算してしまったのです。
たった数日間で、絶望的な経営状態に陥りました。。。。

そして、がん告知から1年後にやってくる「親父の死」。
そのあとやってくる様々な方からの債権請求やら経営権の主張やら相続やら・・・・・・。

 

ボクが島を離れて警察官になっている間に、その会社は株式会社となっていて、親父と、もう一人の出資者がいたのです。株の保有率は、親父とその方で50:50(親父もその方も、よくこんな条件を飲んだよなぁと今でも思うんやけど)。

もちろん、その方は会社へ出資をしている大株主なわけで、経営方針や運営方針へも意見をされてきます。しかし、その意見というものが、ボクにとっては現在の観光業界に逆行する流れにしか感じられず、どうしても聞き入れることができなかったんです。

もちろん、ボクのその判断や行動は、経営者としての常識から外れているのですが、、、
海洋レジャーやリゾートを楽しむだけの立場の出資者と、海洋レジャーを仕事にしている立場のボクでは、やはり意見は食い違います。

相手はなんせ、日本の高度経済成長期を支えてこられた世代の方なので、強硬的なんですよね~。
そして、当時はまだまだ機動隊上がりのスーパー頑固が抜けきっていないボク。

「お前が経営者になってから、会社に金がねぇじゃねぇか!」なんて言われてみたり・・・。
それに関してだけは、とんだとばっちりだぜ、ベイベー。

ボクがいるうちは、出資も協力もしないと言われるまでに対立が深まってしまいました。

 

そして、病みます。

親父のがん宣告を受けてからの2年間は、光の全く見えない闇だった。
ホントに、しんどかった。

親父、親父の彼女、出資者の方、そのほかにも何人もの「暗い感情」がボクひとりに降りかかってくると思い込んでいたわけで、精神的にも病んでいた。

周りのスタッフも、暴走していたボクから距離を置いていたので、誰からも助けてもらうことはなかった。そんなん当たり前っすよねー。

ふと眼を閉じたら「首吊りのロープ」しか見えない。
夜も眠れない日々。
大好きなビールさえも体が受け付けなくなってました。

頭もいっぱい、まともな思考なんてやっているつもりで全くできているはずもない。
いつしか、「会社を盛り上げたい」」とか「座間味を盛り上げたい」、「お客様へ癒しを」っていうボクのビジョンは、

「オレが会社を立て直す」「オレが相続する」

へと無意識にすり替わっていて、「オレが」に執着しすぎてました。

そんな中でも、お客様はやってくるわけで、ニコニコしながらガイドしていたけど、どこかしら無理があったし、当時のボクの仕事は、これまでのガイド人生の中でホントに最低なものでした。

今、振り返っても泣けてくる。

 

ホンマ、おバカやったわー。

そして、その出資者から突き付けられる三下り半。
「もうお前ではムリだ。外で修行してこい。」
と、解雇されるわけです。

この頃は、誰にも本音は言えなかった。
誰も信用できなくなっていた。

だから、親父の遺した会社を離れるいきさつもわかってもらえるはずもなく、
「親父の会社をのっとられたぼんくら」とか、「逃げ出した親不孝者」というレッテルを貼られたんす。

そんな中、「あの時」ボクに連絡をくれた島の先輩と、そんなボクを拾ってくれた島の先輩だけは、ちゃんとボクの話を聞いてくれました。
そして、力いっぱい、励ましてもらいました。

さらに、、
そんな羽目にあったボクのコトを心配してくれるお客様もけっこういたんです。
Facebookやメールで直接連絡を取れるお客様はもちろん、ボクと個人的な連絡を取ってなかったために、座間味に遊びに来て突然ボクがそのショップからいなくなったことを聞かされたお客さんは、すぐに島のいろいろなところで聞き込みをしてボクを探しだしてくださったり。

そのことが、すごくチカラになりましたー。
オレ、ひとりちゃうやん。

どんなに批判されようと、ウワサ話されようと、抱え込んだ負債がきつくても、あの頃のボクが「島を離れる」という選択肢を考えなかった大きな理由です。

やっぱり、オレはこの島で頑張りたいと、心からそう思ったんです。

海にもめっちゃ癒してもらえてるしねー。

 

って、長いよーーー。

ここまでは、当時のボクの主観で書きました。
というか、かなり前に書いたブログにちょっとだけ手を加えたリライトっす。

あれから5年。
ようやく、あの頃の自分と、客観的に向き合うことができるようになったんす。

そのきっかけになったのは、「パイセンTV」(笑)。
たまたま見ていた短パン社長が印象深くて、それを見た翌朝にたまたまTwitterで短パン社長を取り上げた記事を見つけ、エクスマと言うものを知り、マックスブログ塾を知り、そこからたくさんの人との出会いがあり、、、

それがあったから、当時の出来事にちゃんと向き合って、ボク自身の心の奥深いトコにある「ボクの本当の想い」にたどり着けたんやろうなぁ。

これって、頭の中でコネコネ考えるだけじゃたどり着けないことはもう何度も経験済みやし(笑)、ブログでちゃんと書くとか、誰かとそういうことを話すとか、アウトプットすると自分で気付かなかった自分の想いにたどり着けるもんやったり、、、

それはふとしたきっかけで、何度もそういう振り返りの機会があって、その度に新しい境地にたどり着けるんやなぁ。

 

実は、、、、、
この続編もあったり、なかったり、、、(笑)。

 

プロフィール

宮里 清司
宮里 清司
1977年・沖縄市生まれ。
中学生の頃から、父親の出身地である座間味島の海に潜り続けてきました。
大人になって座間味の海でガイドをするようになったのですが、父親との衝突や減圧症の軽症状に悩み、ダイビング業界を一時引退。
その後、何の縁か海の無い滋賀県に移り住み、ふとしたきっかけで警察官となり、機動隊で潜水士をしていました。
やっぱりダイビングからは離れられなかったです。
そして、座間味の海からも離れられなかったです。
警察官を辞めて、座間味の海に帰ってきました。
今は、子供の頃からずっと見続けてきた座間味の海でガイドダイバーとして、そして写真家として活動しています。