ガイドする写真家・せ~じができるまで。~ その15 ~

今回は、初めて人に話すコトです。
かなり暗く重たい話です。なので、スルーしちゃってもいいですよ~。

はいさい!
ダイビングガイド兼写真家のせ~じです。

自分のルーツをたどってみよ~♪
なんて軽いノリで始まった連載企画。

これまでの記事は、コチラ
↓ ↓ ↓ ↓
ガイドする写真家・せ~じができるまで。~ 過去の分 ~

はいっ!
14話です。

写真修業をしながら、2代目経営者として一生懸命にやっていた宮里青年。
迷走に迷走を重ね、ぼんくらっぷりを発揮しながらも、苦しかった会社の経営改善を実施し、次のステージへチャレンジできそうな段階までやってきたのです。

しかし、急にやってきた親父の末期がん宣告。
そこから、大きく歯車が狂い始めていきました。

 

突然の解雇宣言とその後。

独りよがりの強い思いが暴走し、迷走していたボク。
はじめのうちは期待してついてきてくれた社員も、だんだん距離を置き始め、身内だった親父もボクを煙たがるようになりました。

そんな夏の日。もうすぐお盆休みにさしかかる超繁忙期でした。
一度は経営を私に任せて治療に専念してたはずの親父が、突然島に戻ってきて、経営の指揮を執り始めました。
そして、親父の一声で突然会社をクビになりました(笑)。

とはいえ、予約をしているダイビングのお客様はたくさんやってくるわけで、お客様へもほかのスタッフへも負担とか迷惑はかけられないから、「クビとか意味が分からない」と言って海へは行き続けガイドしてました。

しかし、経営面は一切シャットアウト。
数日後、親父に呼ばれて突然クビを解除され(笑)、元の状態に戻るわけですが・・・・・。

頑張って貯めこんだ会社の運転資金がほぼ根こそぎなくなっている・・・・!

死期を迎えた親父が、個人的な会社への貸付け金と、未納分の給与を清算してしまったのです。
たった数日間で、絶望的な経営状態に陥りました。。。。

 

そして親父は亡くなって、、、

それから半年後、がん告知をうけてから1年後に「親父の死」はやってきました。
そのあとやってくる様々な方からの債権請求やら経営権の主張やら相続やら・・・・・・。

私が島を離れている間に、その会社は株式会社となっていて、親父と、もう一人の出資者がいたのです。
株の保有率は、親父とその方で50:50。

もちろん、その方も会社へ出資をしているわけで、大株主でもあるわけで、経営方針や運営方針へも意見をされてきます。
しかし、その意見というものが、私にとってはバブル景気経験者ならではの現在の観光業界に逆行する流れにしか感じられず、どうしても聞き入れることができなかった。

もちろん、ボクの言動は常識的に外れているとは思うけど、「海洋レジャーやリゾートを楽しむだけの立場」と、「海洋レジャーを仕事にしている立場」では、やはり意見は食い違う。
なんせ、日本の高度経済成長期を支えてこられた世代の方なので、強硬的なんですよね~。
そして、言わずとしれたスーパー頑固者のボク(笑)。

「お前が経営者になってから、会社に金がねぇじゃねぇか!」なんて言われてみたり・・・。
それだけはとんだとばっちりだぜ、お兄さん。。。

ボクがいるうちは、出資も融資もしないと言われるまでに対立が深まってしまいました。
親父のがん宣告を受けてからの1年間、親父が亡くなってからの1年間は、光の全く見えない闇だった。

ホントに、しんどかった。

親父、親父の彼女、出資者の方、そのほかにも何人もの「暗い感情」が自分ひとりに降りかかってくるわけで、ボク自身もマイナスの感情に支配されるし、精神的にも病んでいた。

周りのスタッフも、暴走していた私から距離を置いていたので、誰からも助けてもらうことはなかった。
眼を閉じたら見えるビジョンは「首吊りのロープ」でした。
夜も眠れない日々。大好きなビールさえも体が受け付けなくなっていた。

 

孤立していき、まともな思考じゃなくなってました。

頭もいっぱい、まともな思考なんてやっているつもりで全くできているはずもない。
いつしか、「会社を盛り上げたい」」とか「座間味を盛り上げたい」、「お客様へ癒しを」っていうボクの信念は、

「オレが会社を立て直す」
「オレが相続する」

オレオレ状態へと気づかないうちにすり替わっていて、それに執着しすぎていた。

そんな中でも、お客様はやってくるわけで、ニコニコしながらガイドしていたけど、どこかしら無理があった。
当時のボクの仕事は、ボクの人生の中でホントに最低なものだった。

そして、その出資者から突き付けられる三下り半。
「もうお前ではムリだ。外で修行してこい。」
と、正式に解雇されるわけです。

この頃は、誰にも本音は言えなかった。
誰も信用できなくなっていた。

だから、ボクが親父の遺した会社を離れるいきさつもわかってもらえるはずもなく、
「親父の会社をのっとられたぼんくら」とか、「逃げ出した親不孝者」的なことを言われたりした。

そんな中、「あの時」ボクに連絡をくれた島の先輩だけは、ただひとり、ちゃんとボクの話を聞いてくれました。そして、力いっぱい、励ましてもらいました。

さらに、、
そんな羽目にあったボクのコトを心配してくれるお客様もけっこういたんです。
Facebookやメールで直接連絡を取れるお客様はもちろん、ボクと個人的な連絡を取ってなかったために、座間味に遊びに来て突然ボクがそのショップからいなくなったことを聞かされたお客様は、すぐに島のいろいろなところで聞き込みをしてボクを見つけだしてくださったり。

そのことが、どんなに批判されようと、噂話されようと、いろいろきつくても、「島を離れる」という選択肢を考えなかった大きな理由だった。

やっぱり、オレはこの島で頑張らねばならないと、心からそう思ったんです。

ふぅ。
やっぱり、この過程は、まだ生々しすぎます。

でも、この出来事にちゃんと向き合って、自分自身の心の奥深いトコにある「本当の想い」を探し出さなきゃね~。
そして、ブログでちゃんと書いていたら、本当の自分を見せることができるような気がするので、しっかりと書き上げていこっと。

ということで!
初めて自分の意志以外の要因で職業を失った宮里青年。
深い闇の中に陥っていきますが、島のみんなとお客様に救われていきます。

続くっ!

プロフィール

宮里 清司
宮里 清司
1977年・沖縄市生まれ。 中学生の頃から、父親の出身地である座間味島の海に潜り続けてきました。 大人になって座間味の海でガイドをするようになったのですが、父親との衝突や減圧症の軽症状に悩み、ダイビング業界を一時引退。 その後、何の縁か海の無い滋賀県に移り住み、ふとしたきっかけで警察官となり、機動隊で潜水士をしていました。 やっぱりダイビングからは離れられなかったです。 そして、座間味の海からも離れられなかったです。 警察官を辞めて、座間味の海に帰ってきました。 今は、子供の頃からずっと見続けてきた座間味の海でガイドダイバーとして、そして写真家として活動しています。